伊藤忠兵衛記念館のなりたち

伊藤忠・丸紅の創始者、初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念し、初代忠兵衛の旧邸、二代忠兵衛の生家である豊郷本家において、彼等の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示。
繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。

近江商人、忠兵衛と八重夫人の当時の暮らしぶりに出会う。

中山道に面して建つ初代伊藤忠兵衛の旧邸は、明治15年に建てられ、
伊藤家が生活していた頃そのままの形で残されています。
その中に一歩入ると”近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりが偲ばれます。

革新と慈悲 ~初代伊藤忠兵衛の生涯を貫くもの~

初代伊藤忠兵衛は、わずか15歳の若さで持ち下り商いをはじめ、以来、幕末から明治の初・中期という激動の時代に、全く独立独歩で各種の事業を興し、それらを大きく育てあげました。彼の足跡をたどると、そこには、事業展開のおける革新性と、経営理念の底を流れる慈悲の精神が浮かびあがってきます。

初代忠兵衛は、近代日本のとば口において、数々のブレイクスルーを果敢に実行しました。たとえば、大阪での「紅忠」開店と同時に店法を制定し、経営の合理化と組織化を図ったのがそれです。

店法には、店員の義務と権限が明文化され、「利益三分主義」の内容もはっきり定められました。
また、会議制度を取り入れたり、高等教育を受けた学卒社員を入社させたり、あるいは保険制度を利用したりという、当時としては画期的な試みを次々と実現し、まだ旧弊な商慣習を色濃く残す同業の人々をアッと驚かせたのでした。この初代忠兵衛の革新性とコインの裏表のような関係にあるのが、彼の経営理念を貫く仏教的な慈悲心です。彼は、「商売は菩薩の業」と信じて店員にそれを徹底させました。近江商人を特徴づける「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の実践や「商売で嘘をつくな」という厳しい教えも、そこからきていたといえます。
同時に、彼は店員に対しても慈悲心を持って接しました。それは、主従の関係というより、家族主義的な、共同経営者として店員を遇する姿勢になってあらわれていました。
「一六」と称して、1と6がつく日の月6回、全店員参加のスキヤキパーティを催したのも、その一例です。スキヤキ会は無礼講で、忠兵衛と店員たちが席をともにし、酒を酌み交わしたそうです。
ほかにも、芝居や相撲見物、納涼船遊びなど、現在の社員リクリエーションを先取りした数々の行事を催し、店員たちを慰労しました。このような忠兵衛の姿勢は、おのずと店員たちのモチベーションや結束力を高め、日頃の商売にも好影響をもたらしたことでしょう。初代忠兵衛の篤い信仰心はかつて九州への持ち下り商いをしていたころ、福岡にある真宗西本願寺派の古寺・万行寺の住職であった七里和上という高僧から、親しく仏の教えをうけたことがベースになっています。革新性と、慈悲心と、そう、この一見異質なふたつの要素が、初代伊藤忠兵衛の生涯を貫き、偉業を達成させた原動力になったといえるでしょう。

激動の時代を駆け抜けた稀代のコスモポリタン 二代伊藤忠兵衛

二代伊藤忠兵衛は、初代から事業を受け継ぎ、それをさらに近代的な経営体へ変革するとともに取り扱いを商品の幅を広げ、海外へ事業フィールドを拡張させました。いわば、今日の総合商社の基盤を作り上げた実業家といえます。しかも、彼は、恐慌と戦争の時代に、巨大化する組織を率いて見事にそれを成し遂げたのです。

二代伊藤忠兵衛の足跡をたどると、彼の企業人、いや人間としての資質が浮かびあがってきます。それは「合理主義の精神」と「果敢な決断力」です。
二代忠兵衛の「合理主義」を物語る面白いエピソードがあります。それは、彼がわずか17歳で二代忠兵衛を襲名し、伊藤本店に入店してまだ間もないころの話。大阪市の得意先回りをするのに、それまでの徒歩にかわって、自転車を利用することを支配人に提案したのです。明治30年代のこと。自転車はまだ普及しておらず、乗れる者は店にひとりもいませんでした。忠兵衛は自ら「教官」となって店員の「自転車教習」を行いました。その甲斐あって、一日に回れる得意先の数は飛躍的に増えたそうです。
また、店を近代的な組織に変えていくため店法の改正を何度も行ったり、当時ではめずらしい学卒社員を数多く採用していったのも、彼の「合理主義の精神」の賜物といえるでしょう。外国商館を介した取引から直貿易に切り替えたり、機械や鉄鋼といった非繊維製品を扱いはじめたのもそう。彼のこうした合理精神は、天性の素質に加え、イギリス留学の経験によって磨かれたものであると考えられます。しかし、このような「合理主義の精神」にカタチを与えるには、もうひとつの資質、「果敢な決断力」が必要でした。
二代忠兵衛の決断力は、危機的状況に直面したとく、いっそう冴えわたりました。大正9年の金融恐慌による経営危機の際は、「屈すべきときに屈しなければ、伸びるときに伸びられない」という哲学のもと、大胆な事業縮小と経営改革を断行し、未曾有の難局を乗りきりました。このとき、彼が新たに組織した経営陣は、忠兵衛以下平均年齢35歳という若さ。まるで現在のベンチャー企業の経営体制をみるようです。戦中期になると国家の統制が強くなって、自由主義的、コスモポリタン的な忠兵衛の経営センスをぞんぶんに発揮しづらくなり、彼はしだいに直接的な経営現場から遠ざかりますが、経営のカリスマとして、実業界において重厚な存在感を示し続けました。そして、彼がつくりあげた組織は根を伸ばし、幹を太らせ、今日の伊藤忠商事へと成長を遂げます。「人が組織をつくり、組織がまた人をつくる」のであるとすれば、二代忠兵衛の経営哲学やその精神は、現在の伊藤忠商事のなかに、いや、かつて忠兵衛から学んだ多くの経営者たちの中にも、確かに生き続けているといえます。

豊郷本家における活躍 八重夫人

明治5年(1872)初代忠兵衛が大阪に店を構えた時から、豊郷本家における初代夫人、八重刀自の目覚ましい活躍が始まりました。
大阪店で使用する江州米や八日市参のたばこの選定、味噌や梅干しの漬け込みをはじめ、毎年夏には大阪店のふとんを江州に持ち帰り、洗濯の上仕立て直ししていました。さらに、大勢の店員の盆、正月の着物の仕立てから下駄の調達まで行き届いた心遣いをしていました。
特筆すべきは、八重刀自が初代忠兵衛の力強いアシスタントとして、江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回していたところです。二代忠兵衛は「数万反の麻布を1日に発送するときの総指揮から食事・弁当の常備まで全部母が主宰しておったが、いわゆるケーパブルな人であった。」と回想録の中で述べています。
八重刀自の最も重要な仕事は、新入店員の教育でした。当時伊藤忠本店に見習い店員として採用されると、まず豊郷の本家で1ヶ月、八重刀自からじっくりと店員としての行儀作法や、そろばん等必要な教育をほどこしていました。入店後に店員が問題を起こした場合も、直ちに豊郷本家に送られ、再教育されるのが常でした。